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![]() Ken & Mary's Second Life |
『更科紀行』の旅で芭蕉が詠んだ句は十一句、詠まれた場所を辿る旅 |
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中秋の名月= 2026年9月25日金曜日 |
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| 『更科紀行』芭蕉の足跡を辿る旅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ▼旅程(1688年)※旅程は諸説あり 8月11日美濃から江戸へ帰途途中、 信州更科(千曲市)の姨捨山 の秋の名月を見ようと、 中山道へ、洗馬で中山道と別れ 信州方面に向かた。 木曽の桟(かけはし)で2句詠む 桟や いのちをからむ つたかづら 桟や まづ思い出づ 駒むかへ 善光寺街道・猿が馬場(麻績村) やたち峠(松本市四賀〜筑北村本城) 8月15日:姨捨到着→観月(武水別神社周辺 泊?)姨捨山に着いたのが8月15日なので、そこまでは4泊5日の旅。 8月16日:善光寺参拝(17日説あり)姨捨から日帰り?で善光寺参拝、その日はさらに南の坂木宿(坂城町)に宿泊 碓氷峠~ 8月下旬:江戸へ帰還 |
岐阜から木曽路を経て善光寺街道に入った芭蕉は、猿が馬場(麻績村)やたち峠(松本市四賀〜筑北村本城)などを通って目的地姨捨。姨捨の次に芭蕉が訪れたのは善光寺~姨捨からは日帰りで、その日は南の坂木宿(坂城町)に泊まった。 貞享5年(1688)8月11日、芭蕉は門人越人を伴い、美濃から江戸への帰途についていた。 その旅の途中、 信州姨捨山 の秋の名月を見ようと思い立ち、中山道から信州方面に向かう。木曽路を通り、洗馬で中山道と別れ、善光寺道に入り、長野方面に向った。 姨捨山に着いたのが8月15日、そこまで4泊5日の旅だった。僅か数日で、険しい山坂の多い地帯を行った 芭蕉の健脚には驚かされます。 更科の姨捨山で月見、その後 善光寺詣でをし、江戸へ旅立っています。この 美濃から更科までの旅で綴った のが 「更科紀行」は 短い紀行文で木曽路 でもいくつかの名句を作っている。翌1889年3月、芭蕉は奥の細道の旅に出る。 |
中山道へ、洗馬で中山道と別れ 信州方面に向かた。 木曽の桟(かけはし)で2句詠む 桟や いのちをからむ つたかづら 桟や まづ思い出づ 駒むかへ 善光寺街道・猿が馬場(麻績村) やたち峠(松本市四賀〜筑北村本城) 8月15日:姨捨到着→観月(武水別神社周辺 泊?)姨捨山に着いたのが8月15日なので、そこまでは4泊5日の旅。 8月16日:善光寺参拝(17日説あり)姨捨から日帰り?で善光寺参拝、その日はさらに南の坂木宿(坂城町)に宿泊 |
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| JR姥捨駅~姨捨公園にもあり 長楽寺(あの中に蒔絵書たし宿の月句碑 |
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| 木曽の桟(かけはし) |
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| 木曽の桟(かけはし) |
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| JR姥捨駅~姨捨公園にもあり 長楽寺(俤や姥ひとり泣月の友句碑 |
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| 十六夜観月殿 |
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| 坂木宿(坂城町) |
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| 坂木宿(坂城町)に宿泊 西念寺の門前に芭蕉の句碑 |
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| 8月16日善光寺参拝(17日説あり) | 「身にしみて大根からし秋の風」芭蕉が「大根からし」と詠んだ大根は、坂城町で泊まった時食べた「ねずみ大根」のことであろうと言われる。坂城町中之条の北国街道沿いに西念寺の門前に芭蕉の句碑がある 貞亨5年(1688年)8月15日、姥捨の名月を鑑賞した後、15・16日と坂木宿(坂城)本陣宮原拾玉邸に招かれ、当地中之条特産で、つよい辛味とほのかな甘味が特徴の「なかんじょ大根」(中之条大根)を「おしぼりうどん」で食して、この句が詠まれたといわれる。その後、善光寺に参詣 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 句は旅立ちに際し名古屋の門人達 に与えた留別吟である。 「送られつ送りつ果ては木曽の秋」の句碑が新茶屋(馬籠宿と落合宿の間)にあり、芭蕉が木曽路を旅した際に詠んだ句として知られています。この句碑は、芭蕉の供養のために地元の俳人によって建立され、小説『夜明け前』にも登場し、芭蕉の人生と木曽路の情景が結びついています。 |
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貞享五年芭蕉は越人を伴って名古屋を発ち、木曾路に入った。句はその旅立ちに際し名古屋の門人達に与えた留別吟である。 だが『更科紀行』では「送られつ別れツ果ハ木曾の秋」として木曾山中の旅中吟の位置に配列されている。 長い旅を続けて何度も人に送られ、また自分も人を送るという、出会いと別れを繰り返してきた。そして、いまは木曾の秋を旅することになったという意で、いずれにしろ句意に大きな相違はない。 |
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| 善光寺参道にある 尼寺善光寺大本願 (月影や四門四宗も只一句碑) |
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| 追分浅間神社信濃追分駅 (吹飛ばす石は浅間の野分哉句碑) |
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| 1980年(昭和55年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 軽井沢~碓井峠へ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 1980年(昭和55年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 1980年(昭和55年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1980年(昭和55年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 松尾芭蕉句碑 |
軽井沢ショー記念礼拝堂 はす向かいにある芭蕉句碑 (野ざらし紀行の中の句) |
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| 旧軽井沢の芭蕉「馬をさへながむる雪の朝哉」の句碑。軽井沢の俳人小林玉蓬により150回忌に建てられたものだが、この句は 芭蕉の 野ざらし紀行の際
名古屋で詠まれたもの。 芭蕉が軽井沢~追分を訪れたのは、1688年(貞享5年)8月芭蕉45歳の更科紀行の時で詠んだ句は「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」 |
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| 芭蕉が”更科紀行”の際 碓氷峠の熊野皇大神社 を参拝しただろうと考えられる |
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| 2019年7月13日 朝日新聞デジタル版記事より こんな謎かけはいかがだろうか。 《八万三千八三六九三三四七一八二四五十三二四六百四億四六》 群馬県安中市と長野県軽井沢町の境にある旧碓氷峠を記者が訪れたのは、6月11日の昼すぎ濃霧の中、峠から群馬県側の旧中山道を約300メートル下ると 一(ひと)つ家(や)の碑 の案内板があった。落ち葉の積もった脇道をさらに200メートルほど進む。高さ1メートル余りの石碑が見え、表にこの数字が刻まれている。 どう読むか。峠に戻り、碑を管理する熊野神社の渡邊修宮司に謎解きをお願いした。「『山道(やまみち)は寒(さむ)く寂(さみ)しな一つ家に夜毎(よごと)身(み)にしむ百夜置(ももよお)く霜(しも)』と読みます。数字の語呂合わせで作られた短歌です」 言い伝えによれば、武蔵坊弁慶が逃避行のさなかに心中を数字に託して歌った。しかも爪で彫ったというから生々しい。 源頼朝に謀反の疑いをかけられ、京の都から奥州平泉に逃れた弟の義経一行。その面々の中に弁慶はいた。平家を滅ぼした立役者たちへの理不尽な仕打ちだ。 「痛切な思いをこの地に残したかったが、ここを通ったことが幕府にばれないようにするため、数字で書いたのでしょうか」 碑はもともと江戸前期の寛永年間に建立されたという。約10キロ北西にある浅間山が1783(天明3)年に大噴火し、その後の水害で流失した。「このあたりに積もった火山灰は私の身長とほぼ同じ5尺5寸(約166センチ)と伝わっています」と渡邊宮司。現在の碑は1917(大正6)年に再建されたそうだ。 流失前の碑の歌を本に書いた人がいた。江戸中期の儒学者、新井白蛾(はくが)(1715~92)。随筆『牛馬問』で、作者不詳として紹介した。ある人は昔からこんな和歌の例があると言うが、自分はその道に疎いのでよく知らない、と素っ気ない文章。特に下句は現在の碑と少し違う。〈四五十二四六 夜毎に白く 百四億四百 もも夜置くしも〉。再建の際、記憶違いで誤記されたのかもしれない。 (中略) 旧碓氷峠から東に直線距離で約25キロ離れた群馬県榛東村の黒髪山神社に、一つ家の碑とほぼ同じ数字の歌が刻まれたほこらがある。ここでも代々、「弁慶公遺書」と言い伝えられてきたのだという。 再び上った旧碓氷峠は、やはり霧に包まれていた。東は群馬から、西は長野から暖かく湿った空気が標高約1200メートルの峠に向かって吹き上がり、冷やされて、霧が生まれるという。一つ家の碑の作者の探索も五里霧中である。 峠を行き交う江戸期の旅人がこの碑を見た時の表情を想像してみた。記者のように頭を抱えてしまうだろうか。いや、思わずニヤリとしたに違いない。鬱屈(うっくつ)した現代よりも、ずっとしゃれっ気があった時代だっただろうから。 (文・辻岡大助) |
一つ家の碑 ![]() |
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| 更科紀行全文 1688年45歳 さらしなの里、姨捨(おばすて)山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子(かけいし)が奴僕(ぬぼく)をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、駅旅の事心得ぬさまにて、ともにおぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。 何々と云ふ所にて、六十(むそ)ばかりの道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共(ども)、かの僧のおひね物とひとつにからみて、馬に付けて、我をそ上にのす。高山奇峰頭(かしら)の上におほひ重なりて、左は大河ながれ、岸下の千尋(せんじん)のおもひをなし、尺地(せきち)も平らかならざれば、鞍の上しづかならず。只あやうき煩(わずら)ひのみやむ時なし。桟(かけ)はし、寝覚(ねざめ)など過て、猿が馬場・たち峠などは四十八曲がりとかや、九折重なりて、雲路にたどる心地せらる。歩行(かち)より行くものさへ、眼くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬の上にてたゞねぶりに眠りて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて危き事かぎりなし。仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしきも、我身にかへり見られて、阿波(あは)の鳴戸は波風もなかりけり。 夜は草の枕を求めて、昼のうち思ひまうけたるけしき、むすび捨たる発句など、矢立取出(いで)て、灯(ともしび)のもとに目をとぢ、頭をたゝきてうめきふせば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物思ひするにやと推量し、我を慰んとす。わかき時拝みめぐりたる地、あみだの尊き数を尽し、おのがあやしと思ひし事ども、噺(はなし)つゞくるぞ、風情のさはりとなりて、何を云出(いひいず)ることもせず。とてもまぎれたる月影の、壁の破れより木の間がくれにさし入て、引板(ひた)の音、鹿おふ声、処/\に聞えける。まことにかなしき秋の心、ここに尽せり。「いでや月のあるじに酒ふるまはん」といへば、さかずき持出たり。よのつねにひとめぐりも大きに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人は斯るものは風情なしとて、手にもふれざりけるに、思ひもかけぬ興に入て、青宛玉巵(せいわんぎょくし)の心地せらるゝも処がらなり。 あの中に蒔絵書たし宿の月 桟(かけはし)やいのちをからむつたかづら 桟やまづおもひいづ駒むかへ 霧晴れて桟はめもふさがれず 越人 姨捨山 俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友 いざよひもまだ更科の郡かな 更科や三よさの月見雲もなし 越人 ひよろ/\と猶露けしやをみなへし 身にしみて大根からし秋の風 木曾の橡うき世の人の土産かな 送られつ別れつ果は木曾の秋 善光寺 月影や四門四宗も只ひとつ 吹飛す石は浅間の野分哉 「更科姥捨月之弁」 あるひはしらら・吹上ときくに、うちさそはれて、ことし姥捨の月みむことしきりなりければ、八月十一日みのの国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出でて暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡(やはた)という里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。「なぐさめかねし」といひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、 俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友 いざよひもまだ更科の郡哉 |
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